| −斉藤クンのアウトドアライフ− 小鮒釣りし かの川 〔私の自然体験〕 |
「自分が海や山や川を舞台にした映画を撮ったり、仕事のストレスを仲間とのキャンプや焚き火で癒したりするのは、子供のころ遊んで育った幕張の海や川や森での自然体験が、大人になっても強く残っているからなのかもしれない…」。作家の椎名誠氏がラジオ番組で話しているのを聴いたことがある。40歳過ぎた私が今もやっている野遊びだって、カヌー、釣魚、山歩き、山菜採り、キノコ狩り…どれも皆、子供のころ馴れ親しんだものばかりである。 5月の連休は、山へ野蕗や蕨をとりに行った。佃煮業者に山菜を売って、跳び箱やボールなど学校の備品を買う足しにするためである。中学校の生徒全員もちろん女子も、一人3`の割当て(強制である)があり、超過分は1`50円〜100円で買ってもらえ現金をくれた。一人で10`以上採ってくる猛者もいて、連休明けの登校日はいつになく興奮し、教室は蕗の強い匂いが充満するのであった。 |

(郷里の野山は今も美しいが・・・)
| 故郷を流れるのは夷隅川の支流、落合川である。川の上流部に水車へ引く水を溜めるための堰があって、その下は滑らかな岩肌が段々に続くなだらかな滝になっていた。滝の下流は、淵と早瀬が交互に現れる清流である。村人はこの川を俗に『水車川』と呼び親しんでいた。川の中には、鮎、ハヤ、ヤマベ、タナゴ、鰻、鯉、蟹、エビ、シジミ、カラス貝…魚や貝がぎっしり詰まっていた。親が言うには私は物心つく頃から川で魚釣りをしていたらしい。まだ釣針を知らず糸の先に直接エサを結んでいたそうだ。 |

(水車小屋のあと)
| 夏休みはほとんど毎日、川へ行っていた。川遊びは中学3年の夏休みに最高潮を迎える。高校受験を控えているのに勉強はそっちのけ、友だちと二人で木の小船を作って川を下る計画を立て実行したのである。家にあった角材と買ってきたベニヤ板を使いセメントの防水を施して、炎天下で3日間、なんとか船らしい形に仕上げた。水漏れのひどい粗末な船であったが、初めての川下りはとても新鮮で二人に大きな感動を与えてくれた。私のカヌー遊びの原体験である。 秋は、キノコや木の実を採りに山へ行く。手入れの行き届いた松林や雑木林には、シメジやハツタケなどおいしいキノコが沢山あった。私の故郷では、ヌメリの多いシメジ(多分、アブラシメジだと思う)が特に好まれ、白菜、豆腐と煮込んだキノコ汁は秋一番のご馳走であった。アケビ、山葡萄、栗、椎、柿など木の実も豊富で、子供にとって本当に宝の山であった。山芋堀りでは、途中で折らずにどこまで長く掘り出せるか腕を競いあったものである。 同じ体験を自分の子供にもと思い、帰郷する度に野遊びを試みるのだが、昭和30年代、40年代前半の素晴らしい自然はあまりに変わってしまった。なかでも川がひどい。その惨状を見るにつけやり切れない気持ちになる。豊かな自然の象徴だったあの水車川は、瀬も淵も滝も跡形もなくなり、コンクリート3面張りの人工河川になってしまった。「こんな川じゃ、もう魚もいなくなっちゃったねー」と、水車川で何度か魚釣りをして川に落ちたこともある息子や娘はしょんぼりと呟いた。 |

(河川改修された水車川)
| しかたなく『ほたるの里』として最近、有名になった夷隅川の別の支流の山田川へ釣りに行った。こちらは大量のゲンジ蛍が自然発生する川だけあって、水車川ほどに河川改修も水質汚染も進んでいない。息子に釣り餌にする川虫(カゲロウやトビゲラの幼虫)の採り方を教える。最初、ゴキブリの子供みたいな虫を気味悪がっていたのだが、「川虫は最高の餌だぞっ!」と言ったら、夢中になって虫探しをはじめたのである。そのうち流れの速い瀬の石に川虫が多いことを発見して得意気であった。 |

(田んぼの水路で魚とり)
| 帰り道、鉄道の無人駅に貼ったポスターを見て、その内容に愕然とさせられた。子供が川で溺れている絵に「せきや川で遊んではいけません」の標語を大書してあるのだ。今時の学校では「川や堰は危険な場所だから…」と指導しているのだろう。もう一枚のポスターは「魚釣りはかならず大人といっしょに行こう」と書いてあった。子供の頃から「川や池は危ない」「大人と一緒に」なんて教育をされて、親水性や独立心のある人間が育つのか心配だ。そして先のポスターを描いた同じ子供が「みんなの川を汚さないで」「川をきれいに」と河川浄化運動のポスターを描くのである。 小鮒を釣ったかの川もキノコを採ったあの山も、今はもう想い出の中にしかないのだろうか。 |

担当する花島総合公園の建設では自然生態の復元も重要なテーマとなっています。 |